Episode4
―Unrolled Role 〜孤独の月〜(6)―
キッドが現れた時間は、やはり予告どおり―――――三年前と同じ時間だ。
キッドが美術館に侵入したという非常の連絡を聞きながら、新一は持場から美術館の様子をうかがっていた。
美術館から200mほど離れたビルの屋上からならば、
ヘリが照らしている場所と無線機の音声にさえ注意していれば、ある程度はキッドの行動が分かる。
気付いていたのは、新一くらいなものだろう。
平次と白馬探偵の位置からでは、恐らくここまで詳しくは見えないだろうから。
「三年前よりも、スピードがわずかに遅い―――――」
無線機が、キッドが『月の涙』を持ち出した事を告げた。
体が重く、足は動かない。
目の前が霞み、呼吸器はもうかなり前から限界を告げていた。
「くそ―――――」
快斗が毒づく。このままでは追っ手を振り切れない。
思うように動かない自分の身体が恨めしかった。
哀が言った意味が、改めて身に沁みる。自分にはもう―――――翼がないのだ。
白馬探と決着をつけることさえ、このままではかないそうもない。
回りこんだ警官達が行く手を塞ぐ。
屋上まで出てハングライダーを使うことはもうできないだろう。
後ろからも、警官隊の足音がこだましていた。
数秒もすれば、自分は美術館のビル内でお縄につくことになりそうだ。
窓の外を窺がう―――――屋上ほど高くはないが、周りのビルよりはすでに高い場所にいる。
不本意ではあるが、ここからハングライダーを使うしかないだろう。
窓を蹴破り、身体を中空に躍らせる。後は、いつもと同じタイミングでグライダーを開くだけ。
そのはずだった。
宙に舞い出たその瞬間、痛みが胸を貫く。
わずかに崩れたバランスが、グライダーの角度を変える。
ビル風に煽られてたやすくコントロールを失ったそれは、もはや快斗では制御不可能なまでになっていた。
ぎりぎりの抵抗が功を奏したものの、提無津川を渡るには決定的に高度が足りない。
そのままグライダーは、近所のビル郡の中に飛び込んだ。
「了解しました――――すぐに向かいます」
無線機にそれだけを告げて、探はビルの階段を駆け下りた。
怪盗キッドが自分が待ち受けていたこのビルの屋上まで来なかったことは、彼にとっては全く予想外の出来事といってもよい。
(キッドに、何かが起こった?)
そうに違いない。根拠はないが、そう確信する。
キッドが――――あの怪盗が、自分の予想を裏切ったことなどないのだから。
自分が何を考えているのか。どう行動するのか。
それを全て分かって、なおキッドは自分の挑戦を避けたりなどしなかった。
一階まで降りて、用意しておいた車に乗り込む。ここから杯戸美術館までなら、五分もあれば着く。
(キッドが姿を見せなくなったのは、三年前から)
エンジンキーを回して、アクセルを踏み込む。この時間なら、道もさほど混んではいないだろう。
(何か、理由があったはずだ――――――)
キッドは目的を果たした。
そう思っていた。あの日、キッドは長年捜し求めた何かを、その手にしたのだと。
だが、それが間違っていたことは今日になってもう分かっている。
(いや―――――本当にそれが正しかったのか?)
今、キッドが狙っているのは『月の涙』。
三年前と同じものだ。自分が知る限り、キッドがこれだけの間隔をあけて、同じ獲物を狙ったことなどない。
そして自分が知る限り、というのは怪盗キッドの記録の全てなのだ。
提無津川を渡る橋が目の前に見える。その向こう側の美術館も、はっきりと視界に入った。
(『月の涙』――――それが、キッドにとって特別な意味を持つことは間違いない)
三年前から、姿を見せなかった怪盗キッド。
姿を見せなくなったその理由は、恐らくあのブルー・ダイヤにあると見て間違いない。
では、あの時持ち去らなかった『月の涙』を、何故今になって盗み出すのか?
(簡単に考えるなら、その理由は―――――)
今になって、必要になった。
「どちらにしても、貴方を捕らえれば分かることですがね――――それは叶いそうにありませんが」
踏みっぱなしだったアクセルから足を離し、探は颯爽と地に降り立つ。
その目の前に、見慣れたバイクが滑り込むようにして止まった。
見覚えがある運転手が、メットを外した。
「―――――予想外やったな」
服部君ですか。現れたその顔を、ちらりと見る。
「ええ。言い訳はしませんよ?ただ、貴方達もそう思っていたはずですが」
「そらそーや、文句は言わへん。けど、この後はどうするんや?」
どうするも何も、相手は怪盗キッドである。
自分がここに駆けつけるまでの五分で、既に手が届かないところまで逃げてしまったと考えるのが妥当だろう。
「残念ですが、我々は裏をかかれました。キッドを捕らえることは不可能でしょう」
「んなこたねーよ。可能だ。」
「おや。工藤君もいましたか」
ちょうど平次の影になっていた路地から、今度は新一が姿を見せる。
持場から走ってきたのだろう、その額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「もちろん、とっくに逃げちまった可能性もあるが――――
勝負を捨てるにはまだ早いぜ。こっちにもまだチャンスはある」
「―――――その理由を聞いても?」
問いかけに、新一が頷く。
「俺の持場からは、キッドの動きが大体分かった」
今日のキッドは、以前に較べて明らかに動きが悪い。
しかも、時間に比例してさらに悪くなっている。自信を持って、新一は言い切った。
「それが演技じゃないなら――――賭けてもいい。
あの分じゃ、逃げられやしない。この辺のビルのどこかに、ヤツは隠れてるはずだ。」
(考えが甘かった――――かな)
美術館からそう遠くない、廃ビルの一室で。
胸の痛みを訴える身体にを鞭打ちながら、快斗はそう一人ごちた。
我ながら緩慢な動作で、割れた窓ガラスからビルの外の様子を窺がう。
自分が飛び込んでしまったのは、どうやら地上から三十メートル程度――――
恐らくは、ビルの十二階か三階というところだろう。
飛び込んだ先が廃ビルであったことは、運がよかったとしか言いようが無い。
そうでなければ、自分の所在はとっくに明らかになってしまっていただろう。
取り敢えずこのビルの中には警官が入り込んだ様子はない。
だが、音から察するにもうそう遠くないところにまで捜査の手は及んでいそうだ。
(逃げるしかない――――けど、どうやって?)
自分の手を見る。哀が言っていた、例の症状だろう。
動かすくらいはできるが、力は入りそうに無い。
それは足も同じことで、加えて先ほどから胸が痛む――――真由美が残した傷跡が疼くように。
息苦しさは、その傷がわずかに肺に及んでいたことを思い出させた。
この状態では、ハングライダーの操縦さえこなせそうに無い。
もっとも、そのハングライダーはこのビルに不時着した際に何かしら故障してしまい、
修理しないかぎり使えそうに無かったが。
(手詰まりか―――――足掻くにせよ、身体の回復を待つしかない)
取り敢えず、このビルの中で隠れる場所を探すべきだろう。
窓の傍から離れながら、そんな事を考えて。
目の前でゆっくりと開く扉に、快斗は息を呑んだ。
Episode4(7)
C.O.M.'s Novels