Episode1
―endless night 〜長い夜〜(2)―


服部平次の朝は早い。
と、いうよりもむしろ遅くは出来ないのが現状だった。大学がやたらと遠いのだ。
まあそうはいってももともと朝に弱いわけでもなかったし、そんなに苦痛というわけでもない。
何より今の生活が気に入っている以上、それに文句を付ける気にもなれなかった。
部活さえも休止期間となる夏休みに入ってからも起床は五時半、
という何とも今時の大学生とはかけ離れた日常をおくっている理由は、と聞かれればそう答えるしかないだろう。
朝食に出た魚の骨などくわえつつ、平次はぼんやりとテレビを見ていた。
こんな時間にやっている番組といえばニュースぐらいしかないのだが、
それもまぁ習慣と言ってしまえばそれまでだった。

「そやけど平次、あんたもたまには外にでも出たらどうなん?」

夏休みに入って、ずっと家におるやんか。
食卓の向かいで一緒にテレビを見ていた母親―
もっともこちらも真剣に見ている訳ではないようだったが―が言うともなしに言ってくる。
平次は一瞬横に視線をやって、

「何言っとんねん。毎日宅配便やっとるやないか。」

平次が朝起きなければならないのには、もう一つ理由がある。
いつも通りなら、そろそろその理由がやってくるはずだが―――

「そやから、それしかしてないやないの。
 勉強せい、とは言わんけど、せめて遊びにくらい行ってきたらどうなん?」

和葉ちゃんと、と静は付け足した。別に平次も好きで家にいる訳でもないのだが、
ただ今は何をするにしてもやる気がまるで起こらない――三年前のあの日から。

(もう、三年になるんやな――)

ともすれば忘れそうにもなるその記憶も、夏の訪れと共に思い出さずにはいられない。
あの日、自分は探偵ではなくなった。何故か、と聞かれても分からない。
ただ、全く分からない訳でもなかった。要するに、許せなくなったのだろう。
偉そうに「西の名探偵」などと呼ばれておいて、
絶望の中で消えていった命のその苦しみに気付く事すら出来なかった、自分を許せなかった。
自分は工藤 新一程には強くない。
あの「東の名探偵」は、自分が探偵を捨てた時別に引き止めようとはしなかった。ただ、こう言っただけだ。

(―――逃げるのと、どう違うんだ?)

俺は償う―――――。自分に出来る形で。どちらが正しい、と言う訳でもない。
どのみち互いにそういった事をどうこう言える立場でもなかった。
新一の名前を新聞で見ることもなくなった。
今でもかなり頻繁に会ってはいるが、事件の話となると三年前から全くしていない。

(変った、ちゅうことやな―――)

変った。何もかもが変った。変らないのは思いでだけ―――――。

「平次〜!!おらへんの〜!?」

服部家の静かな朝をぶち壊したのは、これから宅配する物品。
ちょうど平次がとりとめもない思索の終りにさしかかった頃だった。


「もっとスピード出えへんの!?遅刻してまうやんか!!」

背中ごしに和葉の喚き声が伝わってくる。平次の朝が早い、もう一つの理由が彼女だった。
やはりとんでもなく遠い大学に通う彼女をキャンパスまで送り届けてやるのが、進学してからの平次の日課なのだ。
和葉が所属している合気道部は夏も練習をするらしく、それは一年中変らない。

「嫌なら降りたらどうや?走ったら2時間もあれば着くやろ。」

さすがにこの炎天下にマラソンの真似事をする気はないらしい。まだ何か言いたそうだったが、一応は静かになる。

「大体遅れて来たのはお前やろ。」

それだけ言って話を切ると、平次はスピードを上げる。道路交通法違反に間違い無く違反するところまで。

(捕まった時、親父の名前出したら―――アカンやろな。)

それこそ殺されかねない。そんな甘い父親ではなかった。覚悟を決めるしかない。

(なんで俺がここまでしたらなアカンのや―――!?)

猛スピードで赤信号を突っ切る。この分なら無事に時間内に宅配できるだろう―――何も起こらなければ。
平次の後ろでクラクションが鳴った。


「・・・・・・ゴメンな、平次。」

なんとかギリギリで練習時間に間に合ったその直後、
帰ろうとした平次の元にやたらと早く戻ってきた和葉が言った言葉もそれだった。
今聞いた分も合わせれば、五回目くらいになるだろう。
よほど反省しているのか、心なし頭のポニーテールも元気がないようだ。
―――この落ちこんだポニーテールを見たのは三年前が初めてで、その後見たことは無かった。

(―――なんで、探偵、やめるん?)

あの時和葉は、真っ直ぐ平次を見つめた。悲しむような、哀れむような――――そんな瞳で。
ちゃんと説明するべきだったかもしれない。自分は何も話さないまま、
(理由なんかあらへん。ただ、なんとなくや。)
とだけ答えた。その時の罪悪感が、今でも胸に残っている。だからという訳ではないが―――

「ま、ええわ。」

どうせ暇やしな、と平次は努めて軽く答えてやった。どうやら今日は部活がなかったらしい。
まぁ全く気にしない、とは言えないが先程から申し訳なさそうにしおれている彼女を前にすれば、
やはり文句を言う訳にもいかない。
今二人がいるのは大学の傍の喫茶店。和葉のお気に入りのショコラケーキと、
平次好みのサンドイッチが二人がよくここに通う理由だった。

「ついでやし、どっか行くか?まだ九時やし、どこなと行く場所はあるやろ。」

平次の提案に、和葉はまんざらでもないようだったが、彼女の提案は平次の予想を遥かに越えたものだった。

「東京。」

「・・・・・・・・・へ?」

思わぬ発言に言葉が出ない。平次はなんとかそれだけを返した。

「そやから東京。明日からしばらく部活無いみたいやし、
 もう蘭ちゃんとも長い事会うてへんし・・・・・・・。アカンかな?」

どうやら本気らしい。確かに前々から和葉は東京に行きたいと言っていた。
この夏に入ってからも何度か聞いた覚えがある。

「いや、アカンゆう事は無いやろうけど・・・・・・・・。」

さすがにいきなりはちょっと、と平次が言おうとしたその時、某在阪球団の応援歌が流れる。

「これって・・・・・・平次の着メロ?」

いつも被っている帽子とおそろいの着信音。和葉でなくても気付いただろう。
平次は携帯を取り出すが、みた事も無い番号主から電話が掛かって来ていた。
取り敢えず通話ボタンを押し、話す体勢を作る。

「・・・・・・服部君かしら?」

電話ごしに聞こえてきたのは、少し冷ややかながらもよく通る、平次にも聞き覚えのある声だった。
記憶に誤りが無ければ、この声の主は間違っても自分に電話してくるような人物ではなかったはずだが。

「まさか・・・・・・灰原なんか?」

おそるおそる―驚きのせいか少し声がつまってしまった―聞いてみる。
どういう意味かしら、と向こうで彼女が呟くのが聞こえた。
どういう意味も何も、番号を教えたっきりいつまでも連絡すらよこさない彼女が電話してくれば、誰だって驚くだろうに。

「まぁいいわ。それより、今でも暇にしてるのかしら?西の名探偵さんは。」

「自分・・・変って無さそうで安心するわ。」

それはどうも、とそっけない返事が返ってくる。精一杯の嫌味のつもりだったのだが。

「で、どうなの?都合がよければ今すぐこっちに来て欲しいんだけど。」

来て欲しい――――。なんというか、哀らしくない要請だった。来ないで欲しい、ならまだ話しが分かるのだが。

「来い、ってまさか東京にっちゅうことか?」

いや、そもそも電話があったこと自体おかしいのだ。
なんとか落ちつこうとする平次を他所に、彼女は話題を進めていく。

「ええ、そうよ。詳しくは会って話すけど、ちょっと大変な事になりそうなのよ。ダメかしら?」

「いや、丁度ええわ。こっちから行こうと思ってたとこや。和葉が一緒やけど、ええか?」

今度は哀が少し迷ったようだった。どう言うべきか考えていたのだろう、やがて答えが聞こえてきた。

「別に私は構わないけど・・・・・・。真由美さんのことよ、私の要件は。」

「・・・・・・・・・。」

息が詰まった気がした。
いや、確かに手が震えている。顔色も変ったのだろう、和葉が心配そうにこちらを覗きこんでいる。

「それでも良いなら、好きにしなさい。」

話しは終り、という事だろう。唐突に電話が切れ、電子音が耳に響きだした。
彼女らしいことではあった。平次はゆっくり携帯をしまってから、和葉の方に向き直る。
彼女は不安そうに訊ねてきた。

「・・・どうしたん?」

「なぁ、和葉・・・・・・・・。」

真剣に、彼女を見つめる。その雰囲気を察したのだろう、和葉は少し姿勢を正して、改めてこちらを向いた。

「俺が探偵に戻ったら、・・・・・お前、嬉しいか?」

質問の意味などわからなかっただろう。けれど、彼女は小さく頷いて、笑った。

「・・・・うん。」

思えば自分も愚かしい―――。ここにいる彼女がどれだけ悲しんでいたかさえ、気付いていなかった。

「ほんなら、行こか。今日の晩には、向こうに着くやろ。」

話そう。三年前の事も、自分の救いがたい愚かさも、全部話してしまおう。
彼女は自分を笑うかもしれないが、それでもいい。
ずっと止まっていた何かが動き出すのを、確かに平次は感じていた。

「東京や。今言うとったとこやろ?」 

突然話しが変った事に不満があったのか、はたまた真剣に答えた自分を茶化された気がしたのか。
和葉の頬が少し膨らんでいた。
Episode1(3)
C.O.M.'s Novels