Episode1
―endless night 〜長い夜〜(5)―
「このティーカップ―――、コーヒーが入ってたんじゃないですかね?
コーヒーなら睡眠薬を混入するには最適ですよ。」
あ。なるほど。と佐藤警部が手を叩く。
「じゃあ、取り敢えずこのカップを鑑識に回しましょう。
睡眠薬がほんの僅かにでも残っていると良いんだけど―――――――。」
木刑事と佐藤警部が、何やら相談を始めるのを他所に、新一はリビングへ向かった。
中央にテーブルとソファ。壁際にテレビ棚その他様々な棚が並んでいる、
といった言うなればシンプルな造りだった。
テーブルに手をかける――確か遺体はこのテーブルにもたれかかっていた、ということだったが――――。
ざっと調べてみても、特に不審な点は見当たらなかった。
続いて、棚の方へ。少々ホコリは積もっているものの―キッチンと同じ状況ということだった―
やはりこれといっておかしな所はない。そして。推理が確信に変った。
「佐藤警部、これ、自殺ですよ。」
虚をつかれた二人が見たその顔はだけは、三年前と少しも変ってはいない。
自信満面で、多少気障に微笑む口元。静かなその新一の声が、その場に一瞬の静寂をもたらしていた。
「私は反対よ。」
工藤邸のリビングで、向かいのソファにすわって、やはり―――と言うべきだろうか、哀は率直に言葉を紡いだ。
ただ、いつもと同じと言うわけではない。彼女にしては珍しく、物事にこだわっているように思えた。
(まぁ、それも当然と言えば当然か―――)
「もともと――――賛成してもらえるとは思っていなかったけどね?
特にドクター。・・・・・・・・君には。」
努めてそっけなく答える。二人でいるとき、哀と話す快斗はいつもこうだった。
感情を表に出さなくなり、ただ、氷のような冷たさを彼女に向ける。
望んでそうする訳ではない、だが心を晒す事を互いに拒んでいる―――そんな風だった。
(灰原が二人いるみてーだ。)
いつだったか。二人を見た新一がそう言った。そう、きっと似ているのだ。
彼女と自分――――シェリーと呼ばれた彼女と、今でも怪盗キッドである自分は。
陽の当たる世界に拒絶された、漆黒の闇に生きる存在。共に、自ら罪を背負ってきた。
そして、多分これからも、ずっと。
(その君が、なんでここにいるんだ?)
―――闇に松明を掲げる、その探偵の傍らに何故彼女はいるのか。
それを彼女に尋ねたことはない。だが、分かっているつもりでもいた。
―――きっと、彼女は出会ったのだ。その罪を知り、彼女を咎人と知りながらなお、それでも彼女を慈しむ。
そんな存在に。
(―――そして、俺にとってそれは―――真由美。君だったんだ―――。)
気がつけば、随分と長い間沈黙が流れていた。
その重さに耐えきれなかったのか―――まさかそんなことはあるまいと思いもした――哀がもう一度念を押す。
やはり、変らない声音で。
「あなたがどう思おうと、私は賛成できない。彼女を傷つけるだけだわ。
私があなたの苦しみを理解できるはずもないけれど―――でも、それを背負い続けるべきよ。」
あなたが、彼女の幸せを望むなら。哀が瞳を閉じるのが、快斗の目に映る。
その言葉は被った仮面にヒビが入るように、隠された快斗の心を揺り動かした。
「じゃあ、どうして――――」
その先は、言ってはならない。今、目の前で瞳を閉じた彼女を想うなら、決して。
だが、快斗は言葉を止める事が出来なかった。
「どうして、君は工藤 新一の前に現れたんだ?
君の言う通りなら、君は誰にも知られる事のないまま死んでいけば良かったんだ。
君の罪を、全部背負って。でも、君はそうしなかった。こうして今、現に僕等の前にいるじゃないか―――?」
―――君は、矛盾してる。言い終えてから、後悔を覚えて哀から目をそらす。
彼女は少し俯いて、長い間、口を開こうとしなかった。
「―――――教えて、欲しかった。」
時を破り、彼女が呟く。教えて欲しかった。彼女はもう一度繰り返す。祈りを唱えるように、ゆっくりと。
「誰でも良いから―――私が傷つけた誰かに、私の罪を教えて欲しかった。
私が作り出したあの薬で彼が傷ついたのと同じ強さで、彼に私を憎んで欲しかった。
私が知らない所で死んでいった人達全てに、それ以上の苦しみを私に望んで欲しかった。償えなくても良い。
私には耐えられなかった。汚れていく事も、そこから抜け出して生きていく事も。だから、工藤君――――」
―――――彼の手で、私を殺して欲しかった――――。それは、懺悔だったのかも知れない。
救いを求めて、やはり彼女は生きているのだ。―――快斗は、哀の顔を見る事が出来なかった。
彼女は泣いているのだろう。震える声が、それを告げていた。哀がソファから立ちあがる。
泣き顔を見られたくは無いのだろうと、すぐに分かる。彼女はそういう人間だ。
「なのに、彼は私を赦して―――微笑んでくれた――――。」
こんな私を――――。今にも消えてしまいそうな声で、哀は言葉を紡ぐ。
「そして、その事が何よりも辛いんだ。――――そうだろ?」
闇から彼女を解放したその松明は、同じだけの明るさで彼女の傷口を照らし出すだろう。
彼女は似ているのではない、同じなのだ、と気付いた。自分を赦す事が出来ずに、それでも救いを求めている。
救われて――――それでも救われてはならない事を知っている、二人。
「・・・・・・・・・人は、誰でもいつかは死ぬ。」
自分もまたソファから立ちあがり―――快斗は哀の後ろに立った。
前に回れば彼女を傷つける事になるだろうし、快斗も彼女の泣き顔など見たくはなかった。
いつも冷静で、決して弱みは見せない―――それ以外の彼女を見れば、壊れてしまいそうな気がした。
「死んで―――誰からも忘れ去られる日が、悲しいけど必ず来る。
いつまでも、誰かに想っていて欲しい――なんていうのはただのエゴだ。」
そうね。それだけ答えた彼女の頭に、そっと手を置く。自分より頭一つ低い、彼女。
いつもならかなり怒っただろうが、哀は黙ったままだった。
「でも、それでも―――1年に一度でも、1分、1秒でも良いから―――
ほんの一瞬でも自分のことを思い出して欲しい。そう思うだけでも我が侭なのか?」
分からない。彼女は答えた。それがきっと、哀がずっと抱えてきた問いなのだろう。自らの命を絶っても良い。
けれど、せめて誰かの心に残りたい―――。快斗には、それが痛いほどに分かった。
手を離し、そっと―――背中越しに抱きしめる。
「そんなことないよ。―――――真由美が教えてくれた。生きてても良いんだ。
この世から消え去って、それでも願っても良い。
でも、だからこそもう二度と―――死にたかった、なんて寂しい事―――言うなよ。」
彼女はきっと、ずっと独りで怯えていたのだろう――――
罪の重さに、纏う闇の中で――素顔を隠す仮面の裏側で。流れた涙が、快斗の腕に落ちる。
「――――お前が死んだら悲しむヤツがいる、ってことなんだからさ。」
小さく、哀が頷く。その肩が驚くほどにか細いことに、快斗は初めて気付いた。
もし、この背中に翼があったなら――――。
きっと、こんなに汚れてしまわずにすんだだろう。翼の無い自分を、呪った。
Episode1(6)
C.O.M.'s Novels