Episode2
―secret heart 〜秘めた言葉〜(18)―
人込みを歩くのはいつ以来だろう。
肩がぶつかるほど近くをすり抜けていく人々や、息が詰まるような感覚も思えば懐かしい。
人の流れの中で、いつもより少しゆっくりと歩きながら哀は思った。
閉ざされた視界の向こうに時折香澄の背中が映る。
後ろを振り返りながら歩く彼女と何回か目が合った。
こっちこっち、と香澄が呼びかける声も聞こえてくる。
「大丈夫?ドクター。」
快斗が隣で囁く。
街中にもろくに出た事がない自分を気遣ってくれるているのは分かっていた。
実際、慣れない環境下で身体は急速に力を消費している。
「なんで、貴方にそんな心配をされなくちゃいけないのかしら――――――」
―――自分の心配が先なんじゃないかしら?
それでも、口から出てくるのは素直さの欠片もない強がりだ。
可愛くない、と自分でも思う。
「それだけ息があがった状態で言われてもね―――説得力がない。」
「………なんで、貴方の身体にそんな体力が残っているのかしら。」
彼の身体は、そんな長時間の運動に耐えられないはずなのだ。
もう1時間以上歩き続けているが、この元怪盗は疲れた素振りも見せずに微笑んでいる。
「さあね――――それよりどうする?
俺も香澄も、これぐらいのペースなら後1時間くらい平気で歩けるけど。」
「分かったわよ―――降参すればいいんでしょ。」
投げやりに呟くと、快斗は満足げに頷いて見せた。
またこちらを振り返った香澄に、快斗が戻ってくるように合図をだす。
まだまだ体力が有り余っているのか、彼女は元気良く走って来た。
「ドクターがちょっと疲れたらしい。
そこらへんのベンチで休んでるから、飲み物でも買ってきてくれないか?」
快斗が財布から千円札を取り出す。了解、と香澄はこれまた元気良く走り去っていく。
ベンチに腰を降ろすと、無意識の内に息をついていた――――――
自分が思っている以上に疲れているのかもしれない。快斗が隣に腰掛けた。
「―――――俺の身体にこれだけの体力があるのは、不自然なの?」
ぽつりと、呟きが聞こえる。哀は首を横に振った。髪がそれに合わせて揺れる。
そういうわけでは、ない。
「いいえ。医学的な事を言うのなら、貴方の身体は完治しているわ―――これ以上ないくらい―――
それこそ、貴方が負った傷からすれば奇跡的なくらい完全にね。
でも、それでも貴方には後遺症があるわ、不思議なことにね。
平常時は眩暈―――――運動すれば発作がでる。」
あの日―――怪盗は翼を失った。
空高く月夜を舞う怪盗は、もういない。こうして、地を這うのが精一杯だ。
「それって、どういう事?」
「後は、医学では治せない問題―――そういう事よ。」
貴方が罪の意識に囚われる限りは、きっとずっと―――――。
失われた翼は、見えないだけ。本当はずっと、その背にある。
言われれば―――いや、言われなくてもそれぐらいは分かっている。
でも自分は、飛べなくても構わないから。
彼女を―――忘れたくないから。
「そっか――――――。」
それだけを、快斗は言葉にした。
「不器用なのね―――――貴方も。」
哀が、苦笑をこちらに向ける。貴方も。
その言葉の中には東の名探偵も、西の名探偵も――――そして、きっと彼女自信も含まれている。
「そうだね。―――――すまないね、折角治療してもらったのに。」
「本当に―――やれやれだわ。患者に治る気がまるで無いんだから。」
哀が隣で立ちあがった。ポケットに手を入れて、こちらを見下ろしてくる。小さく、微笑みながら。
「それでも、貴方は前に進もうとしている―――――そうでしょう?」
「どうかな―――――その場で足踏みしてるだけじゃないかって気もする。」
「同じ事よ―――少なくとも前を目指している。それは私達には出来なかった事。」
ポケットから出された手が、ゆっくりと快斗の顔に近づく。
「最後まで、進めるかしら?真由美さんが残したように―――終りが、悲劇の繰り返しだとしても。」
「僕には、義務がある。真由美が僕に遺した遺志だ。」
快斗は答えた。
「ずっと、香澄の傍にいる。そして彼女が望む時に、彼女が望む事を僕は伝える。
それが絶望を生んだとしても。香澄に伝えるのが、僕の義務だからね。」
そしてそれが、彼女の遺志。
「進むよ。」
もう一度、繰り返す。不思議と、心は落ち着いていた。
「そう――――――。」
哀がもう一度微笑む。今度は悲しみを交えて。
ゆっくりと、彼女が手を開く。
握られていたのは、古びた鍵束だった。
「なら、私は止めない。―――伝えるのなら、これが必要でしょう?持って行きなさい。」
何故、彼女の手にそれがあるのか―――それは、真由美の家の鍵だった。
「適当に掃除してあるから、入れない事は無いと思う。――――――私に出来るのは、これくらいね。」
「――――――ありがとう。」
差し出された鍵を受け取る。
進もう。
もう一度、心に呟く。
「凍った時が、動き出す――――――。」
哀が唄うように囁く。
「願わくは、溶けた時間が貴方を優しく包むように――――――。」
伝えなければならない、言葉がある。
長い時の中で、凍てついた秘密の言葉が。
秘めた言葉。伝えなければならないそれが、秘密でなくなった時。
何が、自分達を包むのか。
駆け寄ってくる香澄に、快斗は微笑みを返す。
願わくは。秘められた言葉達が、彼女を苦しめる事の無いように―――――。
それは、叶わぬ願いだった。分かっていた。
そして、それでも快斗は願った。
Episode3(1)
C.O.M.'s Novels