Episode3
―Missing Time 〜過行く時〜(12)―
キッド侵入の知らせが無線機越しに聞こえてから、およそ一時間。
新一は自分の持ち場を動くことなくじっとその時を待っていた。
時折もたらされる連絡で、現在の状況を知ることができる。
現場の警備陣は相当に混乱しているようだが、
それでもキッドが数分前に展示室にまで侵入したことまでは分かっている。
あの怪盗の手際ならば、じきに獲物を手にして逃走に入るだろう。その時は、自分の出番だ。
≪工藤君。服部君。―――――聞こえますか?≫
レシーバーから聞こえる、少しトーンの高い声。
この一時間ほどで何度も耳にした、白馬探偵のものだ。
「聞こえる―――――何だ?」
≪こっちもちゃんと聞こえとんで〜。≫
服部の声が自分と同時に答えるのが聞こえる。
何故この大阪人の声はいつも無意味に明るいのだろうか、などと考えた。
≪キッドが逃走を開始しました―――――提無津を越えようとしているそうです。≫
≪そうか―――――ちゅうことは、や。≫
≪ええ―――――僕がキッドを捕らえる。そういうことです。≫
提無津川を越えたビル街に位置をとっているのは、白馬探だった。
今キッドが川を越えようとしているのならば、おそらく遭遇まで後数分とかかるまい。
≪お二人は、美術館に戻ってください。
もしかすると何か手がかりでもあるかもしれませんから。≫
「了解―――――健闘を祈るぜ。」
≪ちゃんと捕まえたってや〜。≫
≪ええ――――――では、これで通信を終わります。≫
プツリ、という音を無線機が鳴らす。探が電源を切ったのだろう。
それを確認してから、新一は周波数を中森警部との連絡用のものに変えた。
何か情報があるかもしれない。
「中森警部。聞こえますか―――――?」
≪ん?ああ―――――工藤君か。
キッドは提無津川を渡っているが―――――これは計算どおりだな?≫
返事が返ってくるまでに少し時間がかかったが、感度は良好だ。
クリアな音声に新一は満足した。
やはり警察が使っているものは並みのものとは性能が違うというわけだろうか。
「はい。白馬探偵が向こうにいます―――――
僕らの中でも最もキッドをよく知る人ですから。大丈夫だと信じます。」
≪そうか。それで、君は何か用かな?≫
「はい。もし何か僕らが知るべき情報があれば、できるだけ早めにお聞きしたいと思いまして。
何かありませんでしたか?」
≪ふむ――――――特にこれといって無かったとは思うが。≫
「そうですか――――――ありがとうございます。」
短い会話を終えて、回線を閉じる。
新一の持ち場は平次よりだいぶ美術館から遠い。
平次が向こうに着いた頃に、平次に直接聞いたほうが良いかもしれない――――――
そう思っているところに、その平次からの無線が入った。
そういえば平次はバイクで移動しているのだから、もう着いていたとしても何の不思議も無い。
≪工藤――――――ちょおいいか?≫
「なんだ?」
≪いや―――――この蒼いダイヤのことなんやけど。≫
「は?ダイヤ、盗られてないのか?」
展示室にまで侵入したはずのキッドが目当ての宝石を盗らずに逃走したというのなら、
それは相当に異例のことではないのだろうか。
「中森警部は、んなこと言ってなかったけどな――――――。」
≪なんやよう分からんけど。最近のキッドはそうらしいで。≫
そういえば――――――新一はかって聞いた言葉を思い出した。
まだ自分が江戸川コナンであった時に、逃走間際の怪盗が言った台詞だ。
『――目当ての宝石じゃなかったし、今回は売られた喧嘩を買っただけだからよ――』
あの言葉が本当だとすれば、怪盗キッドは自分が狙っている宝石以外は盗まないということになる。
「なるほどな―――――それで、ダイヤが蒼い?ブルーダイヤだったのか?」
一般にダイヤモンドは黄色やブラウン、灰色がかっており、無色透明に近いほど価値が高いとされる。
しかし、世界にはまれに青・ピンク・緑の色を帯びたダイヤモンドが存在しており、
そうしたダイヤはまた別の価値基準で評価されることになる。
また、ある一定以上の色味を持ったダイヤは「ファンシー」という名がつけられ、
「ファンシーブルー」などと呼ばれたりするのだが――――――。
≪いや、ちゃう―――――これは別もんや。
『ファンシーブルーダイヤ』やったら、見たことあるからな。
なんちゅうか、これは―――――蒼すぎや。≫
「蒼すぎっつても―――――グレイがかかって無いなら青ければ青いだけ価値が跳ね上がるんだろ?」
灰色がかっていない、ましてや青以外の色味が全く無い純粋なブルーダイヤとなると、
これは滅多にお目にかかれるものではない。
『月の涙』がそうだというのなら、大きさから考えても間違いなく世界で最も高価な宝石だろう。
ただ、「月の涙」の場合はその大きさが『大き過ぎる』ことから本当にダイヤなのか、
と疑われているという事実もあるのだが、これは二人が後で知ることである。
≪そうなんやけどなぁ。どうもほら、この色合いは――――――≫
無線機の向こう側で、平次が迷ったことが分かった。
先ほどからあれこれ言っていることには、なにか理由があるらしい。
「色合い?」
≪あぁ―――――なんや、白木の眼ェみたいな。いや、ちゃう。そのものや。≫
「真由美さんの?」
じわりと広がる、澱んだ気配。新一は何かを予感していた。
ふと、胸にかかることがあった。
それはいつか、どこかでみた怪盗の姿。
夜空に向かい手を伸ばすシルエットの頂上で、掲げられた手の先端に輝く宝石。
そう、まるで宝石を月に捧げるように。
まるで―――――柔らかな月明かりで、己の手に汚れた石を、洗うように。
「服部――――――その宝石、月に掲げろ。いや、違うな。宝石に月の光を通すんだ。」
≪は?なんやその儀式。≫
「いいから早く―――――さっさとしろ!」
少し不吉なものが心を通っただけ。
それだけで、たいしたわけも無いのにも、心が焦る。覚えのある感情だった。
いつ、誰に対して持った感情なのかも、もう思い出すこともできなかったが。
平次から返事が来るまでに、少し時間がかかった―――――
そのわずかな時間でさえも、たまらなくもどかしい。
返ってきた声は、緊張に張り詰めていた。
≪工藤―――――お前、こうしたらどうなるか、わかっとったんか?≫
「いや――――前にキッドがそうしてるのを見ただけだ。それで、何かあったか?」
≪中には、何も入ってへん。けど――――――≫
「けど?」
≪――――色が変わりよった。今は、淡い蒼や。
信じられへんけど、このダイヤそのものから光がでとるみたいやな。≫
その返事は、ある意味では予想通りだった。
一番あってほしくないと、思っていたことだったけれど。
何故か、そんなことばかりが自分を先回りしてやってくる。
「服部。真由美さんの家だ。」
その言葉を裏付ける、何の確証も無かった。
自分が知っている事実が、ただ彼女に集中している―――――そう見えるだけ。
だが自分はきっと、ずっと昔からそんな不確かなものの中で生きてきた。
「彼女の瞳の色を、俺達は知ってる。
その宝石にまつわる伝説めいたものも知ってる。簡単なことだろ?
その宝石は真由美さんと同じ瞳を持つ誰かをモデルに作られて、怪盗キッドはそれを狙った。
そして、宝石を盗らずにここを去った。何故か?
探していたものじゃなかったからだ。ならばそれは、どこにあるのか?」
それは推理ですらない、推測であり、想像。
だがおそらくそれが―――――それだけが、狂うほどの正しさを主張している。
「真由美さんの家は、提無津川を越えればそんなに遠くは無い。」
≪――――――バイク用意して、待っとる。≫
その言葉を最後に通信が切れるのも待たずに。
新一は走り出していた。
走らなければならないという確信があった。
Episode3(13)
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