Episode3
―Missing Time 〜過行く時〜(13)―
月明かりの元、黒い空を滑っていく。風が体をすり抜け、闇に消えていく。
いつもと同じ、自分の舞台。この夜空は自分のものだ。
何があろうと、この領域で自分を捕らえられるものは、いない。
だから今この胸中に渦巻く不安はきっと、怪盗キッドのものではなくて。
ただの高校生――――――黒羽快斗のものなのだろう。情けないほどに、動揺している。
(真由美――――――――)
彼女の名を心に唱えても、彼女が応えてくれるわけではない。
ずっと探していたものが、思ったよりも近くに――――――手を伸ばせば届くところにあった。
言葉にすれば、それだけのことなのに。
怪盗キッドは、己の目的のためならあらゆる手段を講じることができる―――――冷たい心を持っているのに。
黒羽快斗として、白木真由美に出会ってしまった。
彼女の瞳を月に掲げるとしたら―――――その瞳の持ち主が、無事ですむはずが無い。
そんなこと、我慢ならない。彼女が傷つくことに、耐えられない。
心の中で、そう自分が叫んでいる。傷つけることに、俺は、耐えられない。
(まだ――――――そうだと決まったわけでもないのにな。)
もし、本当に彼女の瞳がパンドラだとしたら――――――
そう思うといっそ、そうでないことを望んでしまいたくなる。
自分でも気付かぬ内に、優先順位は書き換えられてしまっていたらしい。
とりあえず、彼女の家に向かう他無かった。
提無津川を渡りきったところで少し高度を下げ、
目立たぬように少し低めのビル―――――それも周りを高層ビルで囲まれたビルに着地する。
後は変装して、何食わぬ顔で地上に降りればいい。そのはずだったが――――――
「動かないでください。」
後頭部に、何か硬い金属が押し当てられていた。
「今、僕が持っているのは正真正銘の拳銃です。動かないほうが賢明ですよ。」
「・・・・・・これはこれは。お久しぶりですね。」
聞こえたのは懐かしい、自信にあふれたハイトーンボイスだ。
「予想通りでしたよ。あなたがここに来ることはね。」
白馬探の笑みが、背中越しに見えた気がした。
「まったく、貴方も油断なりませんね。」
白いシルクハットの上から銃口を突きつけながら、探は苦々しく呟いた。
肩越しに、怪盗もまたこちらに拳銃を向けているのが見えた。
「いったい、どこで手に入れたんです?
そもそも、そんなものを使うのは貴方の流儀ではないはずですが。」
肩越しとはいえ、両者の距離は近い。恐らく目をつぶっても命中させられる距離だ。
全く次から次に―――――怪盗はひっそりと苦笑していた。
今までで一番焦っているこの夜に。
なんでまたかつて無いほどにこの男達は闘志を漲らせているのだろう?
「警部が落としたものを拝借しただけ。こんなところで役に立つとは思っていませんでしたよ。
貴方にしたところで、いつもならそんなものは使いませんから。」
こちらを向かずに、怪盗が答える。
まさかこの冷静な怪盗が自分を撃つとは思えなかったが、それは自分とて同じことだ。
背後を取って銃口を突きつければ確かに相手は動けない。
だがその相手がこちらに銃を向けているとなれば話は別になる――――――
キッドの反射速度ならば、こちらが引き金を引く気配を見せれば同時に近いタイミングで引き金を引けるだろう。
相打ち覚悟で銃を撃つ気などさらさら無いし、そもそもこれはあくまで牽制用であり、
キッドを捕まえるためのものなのだ。殺すわけにも、殺されるわけにも行かない。
動くことができない。
「どうしますか?白馬探偵―――――このままずっとここで立ち尽くしますか?」
まだ顔を向こうに向けたまま、怪盗が語りかけてくる。
「この状況を察するに、貴方は単独行動を取っている―――――
ならば、どれだけ時間をかけても応援はこない。違いますか?」
「・・・・・・・・数時間もすれば警察が私を捜すでしょう。そうなれば貴方の負けだ。」
「ならば――――――。」
瞬間。怪盗が引き金を引いた。
「――――――――――――!!」
わずかに探の頬を掠めて、銃弾が夜空へと消えていく。
どこで用意していたのか、消音機が銃声を抑えたため、気づいた人間はいないだろう。
キッドは動かない。この程度で探が怯まないことを知っている。
事実として、シルクハット越しに伝わる重みは変わらない。
「撃てますか?白馬探偵。貴方に、私が。」
拳銃を使いこなす自身はあった。
英国で鍛えたこともあるし、むこうでは実際に何度か銃撃戦に身を投じた経験もあった。
だが、殺せる距離で、殺すために撃ったことは一度としてない。
「私は撃てますよ、白馬探偵。今の私には、するべきことがある。そのためなら。」
貴方の命のひとつくらい、背負えます。
その声には、今までのキッドに無い凄みがあった。
何かを決意したその響きは、重く、強い。覚悟を決めた、声。
その声にこもる信念に、探は応えた。
覚悟を決めて挑んでくる相手を越えるためには、自分もまた覚悟を決めねばならない。
「―――――なら、撃てばいい。
犯罪者にくれてやるほど、この命は安くありませんがね。死ぬのは貴方の方だ。」
人を撃てるか、撃てないか。
人を殺せるか、殺せないか。
それは、あまりにも小さな覚悟ひとつで決まってしまう。
「私の信じる正義は、貴方の銃口ごときで曲がるものではない。」
「――――――――そう、ですか。」
しばしの沈黙を挟んで、不意に、キッドはあっさりと銃を下げた。
あまりに自然な動作のせいで、探にも一瞬理解ができない。
「なんのつもりです?」
「・・・・・・・・・・今日の獲物である『月の涙』は、展示室に置いてきました。」
「?」
怪盗が、また声を紡ぐ。先ほどとは違い、少し柔らかな口調だった。
「今私を捕えたとしても、それ以上のメリットはない。
そこで、どうです―――――今日の私は盗んでいないということに免じて、
銃を下ろしていただけませんか?」
「意味が分かりませんね。僕が銃を納める理由にはなり得ません。」
もちろん、それは探にとって納得できる理由ではなかったし、
たとえ納得できたとしても銃を下ろしはしないだろう。
怪盗キッドを捕らえること―――――今日この夜に限っては、
それは命と引き換えにでも達成すべき事柄なのだ。
無念のまま、中森警部をここから去らせるわけにはいかない。
それだけ長い間ともに戦ってきた同志でもあるし、それ以外のことでも世話になってきた恩人だ。
「今日のところは引き分けにしておこう、ということですよ。
何も命を懸けてまで白黒つける必要は無いと言っているのです。」
「・・・・・・・・・残念ながら、僕にとっては必要なのですよ。」
大して意味も無い、意地だということは分かっている。
だがそれでも、それに賭けることもできない人間に、どれだけの価値がある?
「中森警部が、きっと決着を望んでいます。」
探は、改めてそれだけを告げた。
キッドが、今夜が中森警部と戦う最後の夜だと知らない。まさかそんなことはないだろう。
伝わるはずだ、と探は確信していた。
今夜しかないのだと。二度と来ない夜が、まさに今なのだと。
「銃を使うことを貴方が望まないなら、それでもいい。
ですが、最後まで付き合っていただきます。」
「・・・・・・・・・・残念ですが――――――。」
キッドが、ゆっくりと振り返る。いつもよりも目深にシルクハットを被っていた。
いつもの片眼鏡(モノクル)をかけていないことに、探は多少驚く。
「残念ですが、今夜の私には時間がない。」
そう言って、キッドは探の横を走り抜けた。
ビルの屋上を蹴って、もう一度グライダーで空を滑っていく。
少々時間がかかったため、もう少し離れた場所で変装をとくつもりなのだろうか。
怪盗がすぐ横を通り抜け、空に舞うまで。何故か探は動かなかった。
「あれが、怪盗キッド――――――。」
怪盗の影が消えてから、呟く。違う。
自分の知っているキッドは、あんな余裕の無い顔はしていなかった。
自分に退くことを求めるような男ではなかった。
「一体、何が――――――?」
何かが、彼の周りで起こっている。それだけは確かなようだった。
自分が動かなかったのは。銃を撃たなかったのは。彼の纏う空気の違いに戸惑ったからだろうか?
それとも、好敵手が万全の状態にある時の決着を無意識に望んだのだろうか?
「どちらにせよ――――――中森警部に謝らないといけませんね。」
そして、東西の名探偵にも、だ。
探はため息をついた。
Episode3(14)
C.O.M.'s Novels