Episode3
―Missing Time 〜過行く時〜(27)―
病院は暗く、静かだった。
何もせずとも光を失う夜の中で、殊更に暗闇をかこうように最低限の灯りが足元を照らしているだけだった。
その光も暗影色で、ひどく頼りない。
快斗が米花市民病院に着いたのと時を同じくして、外は雨が降り出していた。
夜の闇に隠れてその姿は見えないが、地面を叩く音は静寂の中でよく耳に届く。
その雨音にあわせるように、靴音が近づいてくる。
リノリウム製の床は不思議なほど強く反響を繰り返した。
「その音うるさい。この床、なんでこんな素材使ってるのさ」
苛立ちは、しっかりと近づく影に伝わっただろう。
だが、それしきのことで歩みを止めるような相手でもなかった。
「知らないの?抗菌作用があるのよ。」
いつも以上に感情を押し殺した声色で、哀が言った。
その知識は初耳ではあるが、感心する気にもなれない。
自分が座っているのは廊下の片隅にあるちょっとした待合場所とでもいったところで、ベンチが二、三脚。
後は自販機が置かれている。哀は快斗の隣に腰をおろした。
「青子は?」
「病室に残るそうよ―――――時間、大丈夫なの?」
聞かなくても答えは分かっているだろう。
そう言いかけて快斗は口を噤んだ。
彼女が乗るはずだった新幹線はおろか、もう終電すらとうに出発してしまっている時間だ。
彼女の言葉は、その青子をここまで連れてきたことに対する非難に相違ない。
中森警部に連絡ぐらい入れておけ、という指示も当分に混ざっていた。
「彼女は、大丈夫なの?」
「ええ―――――――ただ、傷口は残るかもしれないけど。」
白木香澄が病院に運び込まれたのは、一時間ほど前のことだった。
神社の中で別行動をとった後、再び合流するのは難しい。
そう判断して哀はいったん工藤邸に戻り、
新一は哀と連絡を取りながら平次と香澄、それに快斗と青子の姿を探していた。
平次が射的に夢中になっているところはすぐ見つかったし、快斗たち二人については探す必要もない。
ただ、香澄は見つからなかった。
香澄は、神社の境内の奥で倒れていたところを発見されたらしい。
たまたまポケットに哀の携帯番号を記したメモが入っていたので、病院から連絡があった。
そのメモは今日、香澄にせがまれて哀が渡したものだった。
探偵たちは現場に向かってしまい、今はいない。
「そうか―――――――」
かなりの至近距離から、ナイフで一突き。
傷口と、辺りの様子からはそれ以外の事実はつかめなかった。
あの探偵たちなら何か見つけるかもしれないが。
腹部の大動脈にかなりの損傷を受けたらしく、出血は多かった。
後数分でも発見が遅れていればどうなったか分からない、というのが医師の説明だ。
「真由美さんに連絡を入れるわ。」
そう言って、哀は立ち上がった。
彼女への連絡が今になってしまったところを見ると、
冷静に振舞ってみせる哀もかなり動揺しているのだろう。
ああ、と答えて快斗は窓の外を見た。
雨雲に隠れて、もちろんのこと月は見えない。
もし、こんなふうに月の姿がなければ。
月が存在しないならば。父親は死なずにすんだのかもしれない。
ふとそんな思いが涌いた。
月がなければ、パンドラはない。
パンドラが無ければ、怪盗キッドは―――――――。
「今更、かな。」
すでに存在してしまっているものを、今更問うたところで何も生まれはしない。
月は夜空に輝く。パンドラはその輝きを待っている。
自分の手には、罪がある。
父親の死――――――それは自分にとって、慣れてしまったことなのだろうか?
もう、記憶の中でもおぼろげになっているその背中に、思いを寄せてみる。
慣れているわけではない。今でも、胸には焦がれる何かがある。
だが―――――――その姿だけが、どうしようもなく虚ろになっていく。
ああ、彼女の言う『忘れる』とはこういうことか―――――。快斗は独り頷く。
記憶の中に消えていく容貌(カタチ)。忘れられていく温もりと、匂い。
忘れたわけでは決してない。だがどこにも残りはしない、欠片。
廊下を走る音が耳に届いた。
その音の様子から、こちらに近づいてくる人間が二人――――恐らくは、
新一と平次だろうと、快斗はあたりをつけた。
ここしばらくの付き合いで、彼らの足音は判別できるようになっていた。
「黒羽――――――。」
やがて、二人の姿が闇に浮かぶ。
新一は快斗の前で立ち止まり、平次はそのまま香澄の病室へと急ぐ。
二重に反響していた靴音が、ひとつになる。
「話がある。」
新一が、快斗のすぐ傍にまで歩を進めた。
この雨の中、現場にいたせいだろう―――――新一の服から、雫が床に落ちた。
「何さ。」
雫が、快斗の膝に落ちた。見上げると、すぐそこに新一の顔があった。
真剣な眸がこちらを見据えている。初めて見る探偵の顔だった。
「香澄ちゃんが刺されたのは腹部の動脈だ。
正面からここを刺そうと思えば、ほとんど密着する状態まで接近する必要がある。」
前髪が、新一の顔を覆ってしまった。
やはり雨に濡れた髪が、新一の眸を隠す。
表情が見えなくなり、聞こえるものは新一の声だけになった。
「場所は境内の奥だった。人ごみができる場所じゃない。
その状況下で彼女にそこまで接近できる人間――――――それは、彼女の知り合いだった蓋然性が高い。」
また、靴音が響く。哀が戻ってきたのだろう。
その足音に緊張が混じっていることに快斗は気付いていた。
真由美に、何かあったのだろうか?
近づく反響に顔を向けた。暗闇の中、まだ哀の表情は見えない。
「ドクター?」
「真由美さん、電話にでないわ。」
その言葉は、誰に向けられたものだったのだろう。
頷いたのは新一だった。
だが、そうして頷く新一の傍で。
もう自分もそれが何を意味するのか、気付いていたのかもしれない。
「――――夢って、叶わないから夢なんですよね?」
幸せな、日々。それは、確かに目の前にあったはずなのに。
「黒羽。佳澄ちゃんを刺したのは――――――――彼女だ。」
いつのまにか、生じた隙間。
幸せを呑みこんでいくその空虚を。
絶望と呼ぶのはあまりに容易く、そして心地良い。
「―――――――探してくる。」
間違っているわけでは、きっとない。
ただ、他の何かがそこにあると信じること。
それすらも、彼女には許されていないのだろうか?
目の前で、自動ドアが開く。叩きつける雨の中へ、快斗は走り出した。
頬を濡らすものは、雨だけではなかった。
Episode3(28)
C.O.M.'s Novels