Episode4
―Unrolled Role 〜孤独の月〜(1)―
後ろ手に、快斗は扉を閉めた。
その向こう側には、香澄が居るはずだ。失った記憶を、残酷な形のまま取り戻して。
あの日、目を覚ました時。
香澄からは姉に関することも含め、すべての記憶が抜け落ちていた。
残っていたのは彼女自身の名前と、生活に必要な知識。
それから先の時間を暮らす上で苦労することは無かっただろうが、
意識を取り戻せば誰一人知っている人間がいない――――その状況は、彼女にとって恐怖だっただろう。
「独りにしておいて、大丈夫なの?」
「――――――ドクター―――――」
廊下の端に、哀が立っていた。
なんだかんだといって心配してくれていたのだろう。
その瞳には珍しく迷いや焦り―――――様々な感情が見て取れた。
「珍しいね。盗み聞き?」
「そんなんじゃないわよ――――――心配なの。貴方じゃなくて、彼女がね」
先にたって階段を下りていく背中を、快斗は眺めた。
多分、行き先はキッチンだ。コーヒーが飲みたいときの彼女は少し足早になるから、それで分かる。
「全部伝えたわけじゃないでしょ?
貴方にだって、聞いたことのない彼女の言葉がある。私しか知らない言葉を、香澄さんに」
「俺の知らない言葉?」
キッチンの向こうに姿を消した哀に、問いかける。
「ええ。あって当然でしょ?」
言葉。自分の知らない、彼女の言葉。
哀の言うとおり、それはあって当然なのだ。
自分は彼女の時の一部に割り込んだに過ぎない。
ずっと、彼女に寄り添っていられたわけではない。
絶望を知ってから。彼女が独りでいた時間を。描きなおせたわけではない。
なのに。
「自分は、彼女のことならすべて知っている―――――そう、思ってた?」
コーヒーの香りに乗せて、哀の声が聞こえる。
「自惚れよ。私も人のことは言えないけど」
「――――――まったくだね」
頼みはしなかったが、哀はカップを二つ持ってきた。
砂糖もミルクも、一切の不純物を彼女は拒否する。
毒が入っていたときに気付かないかもしれないからだといつか言っていたが、もちろん冗談だろう。
毒を混入するにあたって、一番便利なのがコーヒーそのものだということを彼女が知らないわけがない。
「俺が知らない、真由美の言葉は――――綺麗だった?」
聞かれた哀が、眉をひそめる。
言葉は通常、「綺麗・汚い」で表現されるものではない。
「どういう意味かしら?」
「彼女らしく、純粋で―――――寂しい言葉だった?」
純粋で寂しい。それが白木真由美らしい、というのなら確かにそうかもしれない。
だが、それは快斗が見た彼女の姿でしかなく、また哀が同じ様に見ていた彼女の姿に過ぎない。
「貴方に、『彼女らしい』なんて判断はできないわ。
さっき言ったばかりでしょ?貴方が知っているのは、彼女の人生のわずかに一部だけ」
「分かってる。
けど――――それでも、俺の知ってる彼女は一人だ」
もし、彼女の全てを知ることができたなら。そう望むのは、きっと愚かなことだ。
真由美の言葉が、快斗に送ったものと哀に送ったものとで違うように。
人は、誰もがいくつもの顔を持って生きている。
新一の中にも、平次の中にも、きっと違う彼女がいる。
それらが完全に重なることなど、決してない。
「それに、もし俺が彼女のこと全部知ってたなら―――きっと、惹かれることもなかった」
知らないから。
分からないから――――知りたいと望むのだと。
「自惚れでもかまわない。
白木真由美は―――彼女は純粋で、そして寂しい人だったよ」
二人は、しばらく沈黙していた。
目の前に置かれたコーヒーが、少しずつ熱を失っていく様子を、快斗はただ見つめていた。
彼女が生きていた頃は、いつか別れにも慣れる時が来ると思っていた。
だが、それは間違いなのだと今になって気付く――――想いは、コーヒーの熱とは違う。
むしろ、時が経つほどに募る想い。後悔と、それとは違う何かだ。
温くなったコーヒーを飲み干す。
同じように想いを飲み干せたなら、何かは変わっていたのかもしれないと、根拠もなく快斗はため息をついた。
「私は、上に戻るわ。香澄さんが心配だもの」
私は、とわざわざ哀が言う。
快斗は頷き返した。自分はここにいると。
「貴方も、今日はもう休みなさい。出来ることもないんでしょ?」
「いや――――さすがに、そうはいかない。
アイツが寝るまで起きてるよ。」
首を振った快斗には何も言わず、哀は階段を上っていった。
体重の軽い彼女の足音は軽快で、耳に心地良い。
これで、良かっただろうか?
自分のしたことは間違っていなかっただろうか?
胸の中で、自分と―――――彼女に問いかける。
もちろん彼女は答えてくれなどしなかったが、
それでも――――恐らくは満足してくれるのではないかと、そんな気がした。
「お兄ちゃん」
不意に呼ばれて、快斗は振り向いた。
自分を兄と呼ぶ人間は、この世に一人しかいない。
「香澄――――どうした?」
自分を兄と呼ぶ人間は、彼女一人。
だが、きっと彼女を妹と呼べる存在は二度と彼女の前には現れない。
二階に上ったはずの哀はどうしたのだろう―――疑問が頭をよぎるが、それを口にはしなかった。
香澄が隣に腰掛けるのを、ただ黙って眺める。
「どうしてかな―――――頭が変になりそう」
弱く響く声は彼女に似ているけれど、やはりどこか違う。
自分はまだ、彼女の声を覚えている―――そのことが嬉しくもあり、哀しくもあった。
忘れられない、その証はまだいくつもある。たとえ、その殆どが朧であったとしても。
「こんな話の後だしな。ごめんな、混乱させちゃって」
「ううん。違うの」
香澄が強く頭を振る。
短い髪が、わずかに快斗の頬を掠めた。
「違う――――――――?」
「そう―――――何故か分からない。
だけど、お兄ちゃんの言ってることが本当だって分かるの。本当にあったことなんだって、分かるの」
失くしたはずの、記憶も。
本当は、失くしてなどいなかったのかも、知れない。
思い出にするのが怖くて、隠してしまったままで。本当は、目をそむけてきただけで。
「信じたくなんて、ないのに―――――――――!!」
何度も、何度も。
同じ言葉を繰り返して。涙を落として。
泣き疲れて眠る香澄を、月光が優しく包んでいた。
Episode4(2)
C.O.M.'s Novels