Episode4
―Unrolled Role 〜孤独の月〜(3)―
香澄を、下に行かせても良かったのだろうか?
今更ではあるが、まずかったかもしれない。
だが、体が自然に彼女を避けたのだから、仕方ないではないか。
(こんな言い訳――――誰が聞くのかしらね)
触れた白い鍵盤が、小さく音を奏でた。
もう三年になるが、音の狂いはそんなにはない。
少なくとも哀の耳が聞く限りでは、あったとしても素人には分からないような狂いだろう。
きっと、真由美が自分で調律していたのだろう。
自分では弾かなくなってしまったピアノを、それでも。
「いつか、誰かに聞かせる日が来ると――――信じていた。そうでしょ?」
そう、真由美本人が言ったわけではない。
だが、幾度となく繰り返された他愛ない話の数々が、真由美がそう信じていたことを教えてくれる。
「叶ったのよね?貴女の願いは」
黒羽快斗が、白木真由美のメロディを知っていた。
それはきっと――――素敵なことだ。
「なのに、何故―――――」
私の聞いた言葉は、あんなにも。寂しかったのだろう?
『哀さん。これだけ、聞いておいてくれないかしら』
『―――――あまり、喋らないほうがいいわ』
『いいの。お願い』
『―――――――』
『あの人が、教えてくれたんです。私に。人を、愛するということ』
『それは、彼に――――――』
『でも―――――あの人は。私を愛しては、くれなかった』
何故。あんな言葉が、最後になってしまったのだろう?
間違いだと。
彼は、誰より貴女を想っていると。伝えられなかったのだろう?
「何故――――――そんな終わり方を、選んでしまったの?貴女は―――――」
だから。時は凍ってしまったのだ。
「これで、話は終わりだ―――――悪かったな、急に呼び出して長々と」
「ううん――――――けど、どうして?」
隣にいる幼馴染の背は頭半分と少し、自分より低い。
多分、三年前ならこれほどの差はなかっただろう。
そんな変化に、今更のように過ぎた時間に気付く。
凍てついた筈の日々の中でも、少しずつ世界は変わっていく。
いつのまにか、自分の視線は彼女を見下ろしている。
進めなくなったのは――――凍りついたのは、きっと自分達の心だけで。
他の全ては、何も知らずに、溶けない時を振り払う。
「俺さ―――――待っててくれって、お前に言ったよな?
必ず、死んでも戻ってくるから。だからそれまで、って」
隣で、蘭が頷く。緩やかに、けれど確かにこの3年を刻んだ彼女。
立ち止まった分だけ―――――自分は、彼女から離れてしまったのだ。
凍てついた三年が、自分と彼女の間に横たわる距離だ。
「身勝手な言葉だよな―――――」
「そんなこと、ないよ」
蘭が呟く。微かな声音で。
「ちゃんと、新一は帰って来てくれたもの――――
約束、守ってくれたでしょ?」
「確かに、俺は帰ってきた。けど」
今。何事も無かったような顔で。彼女に全てを告げられるとしたら。
きっと蘭は受け容れてくれるだろう。自分を許してくれるだろう。
彼女は強く、そして優しいから。
けれど、その分きっと、彼女は傷つく。自分が傷つける。
「けど、俺がいる時間は――――蘭、お前がいる時間じゃないんだ。
三年分、俺はお前の後ろにいる」
『―――――真由美、は?』
黒羽快斗が目覚めたとき。隣にいたのは自分だった。
自分は彼の問いかけに、沈黙で答えた―――――巧く答えられたか、今でも分からないが。
『――――そうか―――――』
ただ、彼にはしっかりと伝わった筈だった。
何も言わずに頷く快斗の顔で、それは分かった。
『ねぇ、名探偵?』
『なんだ?』
『彼女の幸せの為には、さぁ――――』
一瞬だけ見せた快斗の微笑みは――――何よりも寂しげで、透き通っていた。
『俺なんて、いない方が良かったのかな?』
その言葉が、自分には許せなかった。
けれど何故か今は、快斗が伝えようとした意味が分かる――――それはきっと、自分も同じことを思うからだ。
「俺には―――――
もう、お前の隣にいる資格なんてさ。ないんだよ」
幸せで、あって欲しいと。心から願う。
自分では、幸せにしてあげられないから。だからこそ、願う。
傍にいたいと、誓った人。
今は、もう、違う人。
ベンチを立ち、一歩前に出る。蘭は立たなかった。
「だから、蘭――――――さよならだ」
振り向いて、最後に彼女の姿を、この目に焼き付けたい。
二度と会うこともないだろう彼女に、せめて最後の笑みを。
けれどそれすらもできずに。新一は次の一歩を踏みしめた。
Episode4(4)
C.O.M.'s Novels