Episode4
―Unrolled Role 〜孤独の月〜(5)―


 今更確認するまでもないことだが。
 哀は心の中で前置きして、そしてやはり心中で溜息をついた。

 貴方、やっぱりバカなのよ。

 多分、言葉にすればそんな感じの。
 慌てて真由美の家に戻った時には、もう快斗の姿はなく。
 ただ、香澄が寝室で眠る姿が見つかっただけだった。
 まだ香澄がここにいただけでもよしとするべきなのだろう。
 そして、どうやら彼女が今夜一晩目覚めないことを。

 睡眠薬か何か―――大体の見当は付いていたが、
 彼の事だから何か特殊な薬品を使っているのかもしれない―――
 いずれにせよ、快斗は今晩起こることを香澄に教えるつもりはないのだろう。
 彼らしい判断だったし、それに、多分正しい。

「正しい――――そう認めてあげるのは、そこまでだけどね」

 呟きが、部屋の中にこだまする。
 かつて真由美が横たわっていたベッドで、今は彼女の妹が横たわっている。

 この子は、大丈夫だろうか?
 肩の辺りで切りそろえられた、黒い髪―――
 艶やかなそれは、けれど真由美と同じプラチナのそれではない。
 閉じられたまぶたの裏側の黒い瞳――――それが、あの宝石に似ているわけでもない。
 香澄は、真由美ではない―――――だから多分、同じ運命を辿ることもないのだろう。

「なら―――――貴方が今やろうとしていることに、どんな意味があるのかしらね」

 その言葉は、確かに彼に向けたもので――――けれど、答えを期待したものでもない。
 だから。
 窓を叩く紳士的な音に、もちろんのこと哀は驚いた。


「こんばんは―――――お久しぶりですね」

 窓は、こちらから開けるでもなくひとりでに開いた。
 慣れた足取りで、彼が部屋の中に一歩踏み入れる。
 そういえば、彼は何度もこの窓からこの部屋に入っていたのだ。

「あら―――――こんなところに寄り道かしら?」

 何の演出か知らないが、窓から吹き込む風が、カーテンを波立たせる。
 わずかに部屋の中を照らす月光と、その中心に佇むその姿は――――
 忌々しいが、確かに認めなければならないだろう。
 優美で、そして完璧な、舞台に挑む役者のそれだった。

「でも、声色を変える必要はないわ」

 怪盗キッド。
 この白く染められた衣装が、彼の他、いったいどれだけの人間に似合うだろうか?

「その片眼鏡の裏側――――私は知ってるのよ?」

 薄く、キッドが笑う。見たことのない仕種だった。
 初めて見る、洗練された動作――――きっと、ずっと隠してきたのだろう。
 東西の名探偵達に遠慮して。無意味な気遣いだったとしても、今はそれがよく分かる。
 滑らかに動いた手が、片眼鏡を外す。
 それでいいと哀は思った。私と話すのなら、貴方には仮面なんていらない。

「ここにいると思ったよ、ドクター」

 声も、いつもと同じものに戻っていた。それは、黒羽快斗の声だ。
 透明で、大事な感情だけはきちんとしまって。けれど少し、影のある声。

「わざわざ、何の用?もう時間がないんじゃないのかしら?」

 今朝、新一の家で鳴った電話のベル。
 電話の向こうから白馬探――――そういえば、彼とも長らく会っていない―――
 彼が告げたのは、怪盗キッドから実に三年ぶりの予告状が届いたという事実。
 新一と平次は、その連絡を受けると淡々とした表情で家を出た。
 なんとなく、そんな予感はしていた――――そんな表情で。

 そして、彼らは分かっていたのだろう。
 キッドの標的が、『月の涙』と呼ばれる、何よりも蒼いダイヤであると。
 これが―――――最後になると。

「貴方は、私の患者なのよ」

 哀は、諭すように言った。
 そうだ、自分は間違えていない。黒羽快斗は、自分の―――灰原哀の患者なのだ。
 だから、自分が彼を心配することは当然なのだ。

「今すぐ、馬鹿げた計画を中止しなさい。
 捕まる前に死んだりしたくないのならね」

 怪盗キッドは――――三年前のあの日に、翼を失ったのだから。
 白木真由美が、奪ったのだから。自らの命と一緒に、彼女は黒羽快斗から翼を奪った。
 彼女が残した傷跡は、今も彼の身体を縛っている。

「後は、俺の心の問題。そう言ってたのはドクターだろ?」

 快斗は、ゆっくりと右手を胸に当てた。いつもと同じ――――黒羽快斗の仕草で。

「大丈夫。俺は、もう飛べるよ。少し休みすぎたくらいだ」

 だから、外出の許可を。そう言われて哀は気付いた。
 目の前のこの怪盗は、自分に義理を通しに来たのだ。自分の主治医に、わざわざ許可を求めに。

「認めなくても、行くんでしょ?」

 吐き捨てるように、哀は言った。

「認めない。無謀なことをさせるわけには行かない」

 少し、悲しそうな顔だった。けれどそれもまた予想通り。
 そんな表情で、快斗が片眼鏡を再び左目に着ける。振り向いた彼は、窓枠に飛び乗った。

「貴方のその行動の、意味が分からない」

 何故行くの?自分の体のことが分からないの?
 私がお願い、って言い出すのを待ってるのかしら――――だとしたお生憎様ね。
 貴方にそんなこと言うつもりはないの―――だから諦めなさい。
 ちょっとは聞きなさいよ、分かってる?
 意味のない言葉だった。気付いていて、けれど哀は言葉を止められなかった。

「私が」

 キッドが、背中越しに呟く。
 反射的に、哀が口を閉ざす。それに満足したように、言葉が続く。

「私が何故、この服を着るのか、貴女に分かりますか?
 闇夜にすら溶け込むことのできない、この白を」

「そんなことは、どうでもいいの」

「私は黒です。彼女は白。
 そして、彼女の心が求めたのは光だった―――――闇は、光を食い尽くすだけだというのに」

 私は黒です―――――けれど、私は光になりたかった。
 たとえ私が黒でしかなかったとしても――――闇に呑まれたくはなかった。
 黒くあったとしても、闇の一部ではありたくなかった。

「彼女の、光になりたかった―――――」

 そう言って、キッドは月に手を翳した。
 先ほどまでと同じように、月光は彼を包んでいる。
 まるで、闇を消し去ろうとでもするかのように。

「故に――――私は白を纏うのです」

 そう言い残して、キッドは窓枠を蹴った。
 哀は、ただそれを見送って―――――月に、手を翳してみた。




《キッドは―――――必ず、前回と同じ手を使うはずです》

 無線機の向こうで、白馬探が断言する。
 今日十回は聞いたその言葉に、やはり十回目の同意を平次は示した。
 言われなくとも、自分だってそう考えただろう。今の状況を考えたならば。

 三年の時を経て、杯戸美術館に戻ってきた、国宝級のファンシーブルー・ダイヤ。
 同じ満月の夜。同じように、警視庁のど真ん中に舞い込んだ予告状。

《何より――――相手が怪盗キッドである、ということ》

 そこまでで言葉を切った探に、平次は一つの言葉を付け加えた。

(三年前を、乗り越える―――――多分、そのために)

 必要なのだろう。三年前と、同じ夜が。
 真由美の瞳と同じ、見るものの心を奪う蒼が。

「ほんなら、今回もキッドを捕まえるのはアンタの仕事、ちゅう訳やな。よろしく頼むで」

 怪盗キッドの思考もさることながら、白馬探の意地の張りようも相当なものだった。
 こちらの警備体制は三年前と全く同じ――――これは、探の意思表示だろう。
 即ち、決着をつけようという意思表示に他ならない。

(中森のオッサンは、おらんけどな)

 通信機からは、様々な情報が囁かれている。
 それを適当に聞き流しながら、平次は空を見上げた。
 雲ひとつない空に、浮かぶ満月。何もかもが、あの時と同じだと思えた。
 あの日、『月の涙』を自分は掲げて。そして、あの蒼をこの目で見た。

「おんなじに―――――したら、許さんからな」

 誰かが死ぬのは。あんな無力感は、二度と御免だ。
 自分と―――――今日の対戦相手に。平次はそんな言葉を投げかけた。


Episode4(6)
C.O.M.'s Novels